アレクサンドル・デュマ『モンテ・クリスト伯』

「神さまは、すべての人にたいして、お前にたいしてとおなじように慈悲ぶかくおいでになる。主は、裁き手でおいでになるよりさきに、まず父でおいでになる。」
「では、あなたさまは、神さまををお信じになっておいでですか?」と、カドルッスが言った。
「たとい、不幸今日までお信じ申していなかったにしても、お前を見たらいやでも、信じないではいられまい。」
カドルッスは、こぶしを握りしめると、空へ向かってふりかざした。

 


「よく聞くがいい、」と司祭は、神を信ぜよと教えるかのように、手負いの上に手を差し伸べながら言った。「お前が、最後のときになってもまだみとめまいとしているその神さまは、お前のためにこうしたことをしてくだすったのだ。すなわち、神さまは、お前に、健康と、力と、確実な仕事と、友だちと、それにまた、人間が、落ちついた心と、すなおな願望の満足とをもってやすらかに生きていけるような生活をお与えになった。ところがお前は、神さまからめったに与えていただけないようなそうしたありがたいおめぐみを生かすかわりに、いったいなにをやってのけた?お前は、怠け、酒に酔っぱらい、そして、酔っぱらったあげく、お前の友だちのなかでの、いちばんいい男を裏切ったのだ。」
「どうかお助けを!」と、カドルッスが言った。「きてほしいのは、坊さんではなくってお医者さまで。致命傷ではないようです。まだ死なないでもよさそうです。助かる見込みがありそうです!」
「お前の傷は助からないのだ。さっきの三滴の薬がなかったら、死んでしまっていたにちがいないのだ。よく聞くがいい!」
「おお!」と、つぶやくようにカドルッスが言った。「なんという変った坊さんだ。死にかけているものを慰めるどころか、絶望させてしまうなんて。」
「よく聞くがよい。」と、司祭は言葉をつづけた。「お前が友人を裏切ったとき、神さまは、お前を罰するかわりに、まず注意してやろうとお思いだった。お前は貧苦に落ち、食うものにも事を欠いた。お前は、一生ののこる半分を大いに稼いでやろうと思って、必要に迫られてというのを口実にして、あわや罪を犯してもとさえ考えはじめていた。そのとき、神さまは、お前に一つの奇蹟をおしめしになった。つまり、わたしの手から、お前の貧苦のなかに一財産をたまわったのだ。これまで何ひとつなかったお前にとって、まさに目のくらむほどの財産だったな。だが、そうした思いがけない、降ってわいたような前代未聞の財産も、いざそれがわが物となってみると、お前にとっては不足だった。お前はそれを倍にしようとした。では、その方法は?人殺しをやってのけてだ。こうして、お前はそれを倍にした。そのとき、神さまは、お前を人間の裁きの座に引き出され、それをお前からお取り上げになったというわけなのだ。」
「あのユダヤ人を殺そうと思ったのは、」と、カドルッスが言った。「あれはあっしではございません。カルコントなんでございました。」
「そうだった。」と、モンテ・クリスト伯爵は言った。「そこで、いつも――正しい、とは言うまい、もし正しくおいでだったら、お前はすでに裁判で死刑になっていただろう――いつも慈悲深くておいでの神さまは、裁判官どもがお前の言葉に同情し、お前の命を助けるようにおとりはからいくだすったというわけなのだ。」
「だって!あっしは終身懲役になりましたんで。けっこうなお慈悲でございますな!」
「なさけないやつめ!お前は、そうしたお慈悲にあずかったとき、それをありがたいと思ったじゃないか?死刑を目の前にしてふるえあがっていた臆病なお前は、永久の汚辱の宣告が申し渡されたのをきいて、おどりあがって喜んだじゃないか?懲役人の誰もかれもとおなじように《墓場には門口がないが徒刑場にには門がある》と考えて。まさにお前の思ったとおり、徒刑場の門は、思いがけなくお前の前にあくことになった。一人のイギリス人がトゥーロンを訪ねて、徒刑囚を二人だけ助けてやりたいと申し入れた。めがねにかなって、お前と、も一人の仲間が選び出された。二度目の幸運がさずかったのだ。お前には金ができ、しずかな生活がかえってきた。徒刑囚として暮らさなければならなかったお前に、あたりまえの人たちとおなじように生活することがゆるされたのだ。ところが、あろうことか、お前は、神さまを三度おためししようとした。いままで見たこともないような金を持ったお前は、それくらいでは足りないと言った。お前はなんの理由もなく、なんら申し開きできるような口実もなく、第三度目の罪を犯してのけた。神さまは、根気負けをしておしまいだった。そして、お前をお罰しなさることになった。」
 カドルッスは、目に見えて衰えを見せていた。
「水をくださいまし。」と、彼は言った。「のどが乾いて……焼けそうで!」
 伯爵は、水を一ぱい与えてやった。
「ベネデットの悪党め!」と、カドルッスは、コップを返しながら言った。「あいつ、まんまと逃げてしまうでしょうな!」
「誰にも逃げたりはできないのだ。カドルッス、それは、このわしにははっきり言える……ベネデットも、やがて罰せられることになるのだ!」
「では、あなたさまも罰をお受けになりましょうな。」と、カドルッスが言った。「司祭さまとしてのお務めをおつくしにならなかったわけですから……おあなたは、ベネデットが、あっしを殺すのをおとめになるべきでした。」
「わたしが!」と、伯爵は、瀕死のカドルッスが、ぞっとふるえあがらずにはいられなかったほどの微笑を浮かべて言った。「自分の短刀が、わしの胸につけていた鎖かたびらで刃こぼれまでしたというのに、このわたしに、ベネデットをなぜとめてくれなかったと言うわけなのか!……そうだった、もしお前が、すまないことをしたと思い、後悔してでもいたとしたら、ベネデットをとめてやったかもしれなかった。だが、お前は、思いあがっていた。そして残酷であることにも変りがなかった。それで、神さまの思召におまかせしたというわけだ!」
「あっしは、神さまなんか信じませんや!」と、吠えるようにカドルッスが言った。「あんたにしたって、信じてなんぞおいでじゃないんだ……嘘をついておいでなんだ……嘘をついておいでなんだ!……」
「だまれ。」と司祭が言った。「そんなにどなると、最後の一滴まで血が出てしまいうぞ……おお、お前は神さまを信じていない。だが、お前はその神さまのむくいで死んでいくのだ!……おお、お前は神さまを信じていない。だが、その神さまは、ただ一言の祈り、ただ一言、ただ一滴の涙だけで、ゆるしてくださろうとおっしゃるのだ……人殺しの短刀で、お前に息を引き取らせることもおできになった神さまなのだ……その神さまは、お前に懺悔ができるようにと、十五分の時間をくださったのだ。……いまこそ本心にたちかえるのだ。そして、犯した罪を懺悔するのだ!」
「いやだ。」と、カドルッスは言った。「いやだ。懺悔なんかするもんか。神さまなんかいるもんか。摂理なんてあるものか。何から何まで偶然なんだ。」
「摂理もある。神さまもいらっしゃる。」と、モンテ・クリスト伯が言った。「その証拠に、お前は、神さまを否定しながら、そうやって絶望し、倒れているのに、この私は、金もあり、幸福であり、体もじょうぶで、こうしてお前の前に立っている。そして、お前が信じたくないと思いながら、しかも心の底では信じている神さまの前に、こうやって手を合わせている。」
「では、そういうあなたはどながですかい?」といまにも消え入りそうな目を見据えながらカドルッスがたずねた。
「よく見るがいい。」と、蠟燭を取り、それを額に近づけながら伯爵が言った。
「そうだ、やっぱり司祭さま……ブゾーニ司祭さまだ!……」
 伯爵は、変装していたかつらをかなぐりすてた、そして、青白い顔のまわりにいかにもみごとに垂れていた、美しい黒い髪の毛をとってしまった。
「おお!」と、おびえたようにカドルッスが言った。「髪の毛が黒くさえなかったら、あのイギリス人だと言いましょう。ウィルモア卿だと言いましょう。」
ブゾーニ司祭でも、ウィルモア卿でもない。」と、モンテ・クリスト伯が言った。「よく見るがいい。ずっとさかのぼって考えてみるがいい。ずっと昔のことを思い出してみるがいい。」
 そういった伯爵の言葉には、電気が通ってでもいたかのように、衰えていたカドルッスの感覚は、最後にも一度掻きたてられた。
「おお!」と、彼は言った。「そうおっしゃると、お会いしたような、存じあげているような気がしますな。」
「そうだ、カドルッス、そうだ。お前はわたしに会ったことがあり、わたしを知っているのだ。」
「では、いったいどなたでおいでです?あっしに会ったことがおありになり、あっしを知っておいでのあなたが、どうしてあっしを死なせなんぞなさいました?」
「助けられなかったからなのだ、カドルッス。傷が重かったからなのだ。もしも助かる見込みがあったら、これも神さまの最後の御慈悲のあらわれと思って、わたしのおやじの墓に誓って、お前の命を助けてやり、お前を悔い改めさせてやったところだ。」
「あんたのおやじの墓に誓って!」カドルッスは、最後のひらめきではっと気力を取り直し、どんな人にとっても神聖な、こうした誓いを口にした男の顔を身近に見るために身を起こした。
「そういうあんたは?」
 伯爵は、臨終の迫るのを見まもっていた。そして、こうした元気も、これが最後であることを見てとった。彼は、息を引き取りかけているカドルッスのそばへよった。そして、落ちついた、同時に悲しそうな眼でじっと見ながら、
「おれは……」と、耳に口よせてささやいた。「おれは……」
 わずかにひらいた唇から名前を言ったが、その声はいかにも低く、伯爵自身、それを聞くのをおそれてでもいるというようだった。
 膝をついて起きあがっていたカドルッスは、両腕をひろげると、あとへさがろうとした。つづいて、両手を合わせた彼は、最後の努力でそれを高くさしあげながら、
「おお神さま、」と言った。「あなたがおいでにならないと申しましたことをおゆるしください。あなたはたしかにおいでになります。あなたこそは、天にあっては人々の父であり、地にあっては、人々の裁き手でおいでになります。おお主よ、わたくしは久しいあいだ、あなたさまをみとめないでおりました!主よ、おゆるしください!おお主よ、わたくしをお引きとりください!」
 そう言ったかと思うと、カドルッスは目をつぶり、最後の声をあげ、最後の息をつきながら、仰向けざまに倒れてしまった。
 大きくひらいた傷口からは、たちまち血汐がとまってしまった。
 死んだのだった。

 

引用文献:アレクサンドル・デュマモンテ・クリスト伯』【六】 岩波書店 昭和三十一年九月二十五日 p.86